昭和四十三年十二月二十日 朝の御理解 第八節
「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心じゃ。不信心者程神は可愛い。信心しておかげを受けて呉れよ。」
ここんところは先日も頂きましたように、屑の子ほど神は可愛いと親心を吐露して私共にいわば願っておられると云う感じの、親の心を余すところなく訴えておられる。親の思いはこんなものだと、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと頼んでおられる。
今日もいつも頂く様な意味の御理解ではなくて、今日はこの一番最後のところの信心しておかげを受けてくれよと云うところに焦点を置いて聞いて頂きたいと思うのです。信心しておかげを受けてくれよと云うところ、親の心と云うものをパッと短い屑の子程可愛いと切々たるものを吐露しておられると思うのです。
信心しておかげを受けてくれよと。信心しておかげを受けたい、これは私共の願い、そうでしょう。神様は信心して受けてくれよ、受けたい者が相寄ってですよ、おかげの受けられないのはおかしいと先ず気付かなければいけないと思うです。神様は信心しておかげを受けてくれよと言うておられる。私共は信心しておかげを受けたいと思っている。おかげを受けたい者、おかげを受けてくれよと言うておられるそのおかげを受けてくれよと言うておられる神様がですね、おかげの支配者とでも申しましょうか、おかげの原動力と申しましょうか、そういう例えばおかげをもっておられるのですけども、神様だけではどうにも出来ない。
私共信心しなければ受けられない。それはまたの教えに信心はしなくてもおかげはやってあるみ教えもありますけど、ここではおかげの内容意味が違うと思いますね。
これは知る知らずに関わらず天地の神様のおかげを受けていない者はない。皆おかげを受けている。ここで云うのは信心しておかげを受けてくれよと、信心しなければ受けられないおかげを云うのであると思うですね。
信心しておかげを受けてくれよと仰るのですからこれは信心しなければ頂けないおかげ、そこを私共は信心しておかげを受けたいと思う。その受けたいと思う者、受けてくれよと思う者、おかげを持っている者、おかげを頂きたいと思う者、そこで私共が分からせて頂かねばならないことは、何処におかげの受け物に おかげの受け物が悪いのか。信心しておかげを受けてくれよと仰るからこちらも信心しておかげを受けようと思うのだけど、おかげが受けられないところにです、私共が大いに考え大いに研究して大いに追求して行かねばならない。そこんところが信心の稽古だと思う。例えばそう言いながら神様は神様自身、神様とはこういうものだとか、どういう性質のものだと云った様なこと、あらゆる機会を捕らえては説明をしておられますね。御理解七節に頂きましても「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなしと、天地は流行ることなし、流行ることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
おかげはやってある、だから今日の御理解はこのおかげじゃない。信心しなければ頂けないおかげのことを言うてある。信心しておかげを受けてくれよと、その為にここにこういう神様であると云うことを説明しておられるようですね。流行ることもなければ終わりもないと云うこと。その為には天地日月の心になること肝要なりと。 まあ難しいことなんですね。天地日月の心になること肝要なり。だからこういう難しいことはさておきましてですたい、まあとにかく私共でも聞けば分かる、精進すれば出来るそういうみやすいところから信心になって行かねばならぬと思うのです。そこんところが出来ぬところに信心しておかげを受けてくれよと仰り、信心しておかげを受けたいと思うその両名が相対しておかげが受けられんのはそういうところに元があるのだと云うことを先ず知らねばいけないと思う。
「天地日月の心になること肝要なり」難しい大変な説明がいると思う。けれどもそういう難しいことではない。私共が聞けば誰でも分かること。為そうと思えば誰でも為せる事。その気になれば出来る事。そういう様なところが出来ていないところにです、おかげをやりたい、おかげを受けたい者が相対して居りながら、相向い合いに居りながらおかげが受けられんのではなかろうか。右の手と左の手をこう合わせればこう音が出るのだ。ところが大抵打ちよるようだけれど一ちょん音が出よらん。スレ違いよる、又はまん中に何か障害になるものがある。打ちよるけど音が出ない。おかしなことだな、そしたらここにこういう邪魔になるものがあるから音が出ないのだと云うことが分かる。
信心の道に居りながら信心の道を踏まぬ、真の道に居りながら真の道を踏まぬ。互い違いになっている。道を踏まないから自分の心にこういう根性がある。この根性が邪魔になっておる。この根性が障害物である。これで音が出らん筈だ。この根性が取り除かれる、改まったりするところから音が出るようになる。
昨夜は合楽会でございました。人数は十名余りの者が集まって信心の共励を月に一回しか集まりませんから十二時までと時間が決まっておりますから私が何辺もこれで切らして頂きましょうと止めますけどなかなか立ち上がられない。そして少しでも話を聞こう、自
分達も話をしようと云う雰囲気があるのですよね。有難いことだと思うのですが、まあ私最後に話さして頂いたのですけれども、今度ここの造園のことについての神様の間違いの無い働きを頂いていること、古川先生がお帰りになられたことの顛末、神様のこの様に間違いの無い働きがです、貴方方はこうして聞いたり見たりしよんなさるから先生がするごと言いよんなさるとは思いなさらんですけど、他の者が聞いたらするごとの様に見える程しのおかげを受けておりますと云う事です。
合楽ではむしろそげな素晴らしいタイミング、そげな素晴らしい働きと云うものを時々には頂かれるだろうけどその時に対してずーっと頂きよると云うことはない。例えば造園でもですね、この植樹が始まっているその前後から此処と長寿園とのつながり、前々からあちらが献木されると言ってあったけど全然私も知らなかったけど具体的なものはなかったけども、秋永先生と湯布院に招待受けてからあちらの御主人との出会いとなり色々話している内にあそこの支配人が私の北京時代の友達であることが分かってきた。例えばこちらの内山緑樹でもそうだ、設計しても設計しても皆の気に入らない。そこに色々梅里先生のみ教えが出て梅里先生とのつながり、ここにお参りしてきている人の従兄弟さんに当たられ宮崎さんがその梅里先生のところに仕事に行ったあるとのつながり、色々考えよったら光橋先生が大変な懇意な人でありもうとにかく光橋先生の話を聞くと非常になつかしがられ、この人は何処へでもさっと云って立っていかない人らしい。その人が内山緑樹の顧問をしておられると云うこと。こちらでは長寿園とか内山緑樹とかあまり手を広げすぎてこりゃつじつまがつかぬような感じだと思いよったら、それどこじゃない。長寿園も生かし内山緑樹も生かし、内山緑樹も長寿園も喜んでくれ、又尊敬をしておる梅里先生がやって下さると云う様なこと。その辺のこと具体的に話しただけでも、ほんなこつそんなことがあるもんかと云う様なつながりが出来ておると云う事。そういう働きのこの中に今度の造園が出来ている。恐らく見事な造園になるであろうと云うおかげ話なのです。打てばこうしていちいち音が出ておると云う事。何時の場合だって何処の場合だってこういう神様のお働きのあっている中に御神縁を頂いている者がです、銘々のことになったらそういうおかげを受けていないとするならこれもおかしいと云う事です。そこに例えて云うならば、信心さして頂く者の真の道の心得と云うものを一辺見てみると、心得の中には少しも難しいことは言うてないと云う事。その心得と云うものが自分のものになっているか、御神戒、さあ生ぐさけは食べちゃいけん、お酒は飲んじゃでけん、例えば五戒とか十戒とかありますね。キリスト教には十戒と云うものがある。仏教には五戒というものがある。その五戒の中十戒の中にはとても人間では出来そうもない戒律と云うものがある。ところが教祖が仰ってある御神戒と云うものはどれ一つとして私共その気になれば出来ないものはないことばっかりである。果してその御神戒が自分のものになっているであろうか。これすらも自分のものになっていない、知ってもいない信心の心得と云うものを何時も自分の心の中に頂いてはいないとするならば、それだけでもおかげが受けられない、音が出らんなと云うことを先ず知らねばいけんと思う。成程おかげを受けてくれよと仰るのは、信心しておかげを受けてくれよと仰るのはそういう事を先ず信心に依って自分のものにしてゆくと云うことが信心。そういうおかげを受けてくれよと云う事なのです。
まあ簡単に言うと私が申しますように、それどこじゃない今日から信心の心得をまあ一辺頂き直そうと、御神戒をもう一辺読んでみようと本気で取り組んでみようと云う事になるのです。皆さんとても何回となく取り組まれたと思う。ところがそのみやすい筈のそれがです、何処がどう間違うてくるのかそこんところのへんが難しいものになってくるところに人間の業と云うものを感じないかんことに至っております。
人間の業の深さと云う事。たったこの様に簡単なことすらもこの様に聞けば三つ子でも分かると云う事を、分かりながらそれが行じられていないところにです、やはり信心しておかげを受けてくれよ、信心しておかげを受けたい、受けたい者受けてくれよと頼むものこれが相寄っておかげにならん筈はないのだけれども、しかもその信心してと云う事は難しいことではない。誰でも分かることであり行じようと思えば誰でも行じられることがです、行じられない。
そこでそれを一辺行じてみようと云う気にならにゃいかん。そしてそこに行き当たるものは、人間のそこに業と云うものに行き当たる。たったこの様なことが出来んのであろうか、心に分かりながらどうして身体が云う事をきかんのであろうか。理屈の上で分かりながらこの心がどうして自分で思う様にならぬのであろうかとそこに業の深さを感じる。
昨日の御祈念に福岡の高橋さんがあちらお休みでしたから職人さんを三人連れてお参りに見えました。二人の職人さんはここへ参って来ましたけれども一人は自動車の中に残って出て来てなかった。高橋さんがお届けをされる、他の職人さんがお届けをする。皆んな同じである。最近滝川さんと云う職人どうも非常に雰囲気が悪いわけですね、それが店全体に広がるわけです。かと言って滝川さんは悪い人ではない。どちらかと云うと修養好きと云う人です。云うならば昔の修身科を地で行くと云うところがあるのです。その上信心の教えを頂くのですからいよいよ鬼に金棒的なまあ若いもんですけど年寄りくずして若い者作ったと云う感じの人です。年寄り臭かと云うように高尚なことを言う人にも関わらず店の雰囲気が悪い。そこで職人さん達二人がとにかく合楽にお参りして親先生にお届けしてご覧と気持ちがさっぱりするよと言って無理に昨日連れて来たらしいのです。そして主人と三人で言うけれども自分は降りんと言ってごねて、こういう心で神様の前に参ってもいけんから自分は参らんと言うてもう拝もうごとなか、あんた達参って来いというので三人で参って来た。それぞれに主人と二人の職人さんもその人の心の上にお繰合わせを頂く様に願う。もう皆お届けが終わって帰ったと思ったらその滝川さんがやって来た。お初穂をこうやってぶら下げとる。大概のもんがお初穂はこうやって持って来るでしょうが。ちょっと握ってぶら下げとる。ちょっと見るとお初穂に滝川と書いてない、人のためと書いてある。ほうこの人は自分が助からんのに人のためとは何ごとじゃろうかと思うて聞いておるといよいよお届けをしだしたらしみじみ言うのです。「先生私は本当に信心する様になっておかげを受けておることがよう分かります。そして云うならあれもおかげこれもおかげ、そして目に見えないところまでおかげを受けておることがよう分かります。けれども私はここ何日間自分の心をもてあましとります。晩眠っても眠れません。そして心にもないことを小僧達の前で言います。こげんところで働いて何になるか、他所へ行けばまちっと給料は高いぞと、云う様なことを言う、お客さんにまで言う。だから三福のお寿司屋さんとしては迷惑するような事を態度でやら言うたりするのです。」
そこで私がね、滝川さんあんたはなかなかそれこそ修身科を地で行くような人である。いわば自分で自分の心がどうにもならないところに今行き詰まっておられる。いわゆる自分の心の天地をもう一広げ広げて行かねばあんたが助からん。人のためにならん。あんたはここに人の為と書いているけれど、人の為どこじゃない自分の為にならない。自分は子供の時から人のためになろうと思いよった。何時もなかなか心得が違う。ところが人の為どころか職人達周囲の者にみんな迷惑かける店の為にもならぬ自分である。
自分の心の天地を広げて行かねばなりません。自分一人のためにどれだけ周囲の者にイライラさせたり暗い思いをさせたり、腹を立てさせたりしているかを思うてみねばいけない。
ところが自分で分かるけれどもどうにも出来ない。そこで自分自身が心の天地を広げていくおかげを受けねばいけませんと云うたところに、ここんところの障子にカチッと云うおいさみがあったのです。ほら見てご覧。神様が心の天地を広げて行けと云ってあることが分かろうがね、心を大きく広げていけと言ってある。そしたら先生、広げさして頂かんならんと云うことを私も頂いたと言うのですよ。自動車の中で皆の御祈念の声が聞こえて来ると尚モヤモヤするわけですね。自動車の中で眠ろうとするけど眠れない。けれどもウトウトすると前の晩も眠っとらんので眠っとる。ところがですね、お夢の中で誰か一本の傘をくれたというのです。少し雨模様になったので開こうと思ったけど立派な傘です。開こうとしたけど骨が邪魔して開かれんてことじゃった。その傘を開こうとしたけれども骨が邪魔して開かれん。骨の随まで染み込んだ人間の業と云うもの、その人だけしか持たないもの、喜ぼうとして喜べないもの、おかげを受けている目に見えないところまでおかげを受けていることは分かっているけど感謝の心がどうにも自分で湧かないと云うそこに滝川さんの業があり又滝川さんは感じているわけです。
いわゆるあんたの心の随と云うか、とにかく根性を叩き直し性根を入れ替えさせて貰うことに努めさせて頂かにゃいけん。それが開かれるところに信心の最高のおかげである安心のおかげ、傘のお知らせは安心。さあ降ってきたと云ってから傘を持っていれば安心、さあ照ってきたと云って開きゃ暑い思いをせんで済むと云う様にどの様な中にあっても喜びと安心を頂ける様な信心を頂ながら傘を頂きながら骨が邪魔して開かれんと云うことは相済まないことではないか。その骨に取り組みなさい、自分の心の性根を叩き直すことに本気で改まっていきそこをお取次頂いておかげを頂きなさいと、もうそれこそですね、云うことですねこの事は大将に言うたら喜ぶよ、大将だけじゃない二人の職人さんも喜ぶよ。あんたの事をちゃんとお取次頂いて願うておる。私は本当に思いましたですね、目には見えないけれども目に見えないところにまで、例えば眠っている中にでもこういう素晴らしい働きがあっていると云う事がこれは滝川さんばかりのことではない、皆にも同じ様なことが言えるわけです。そういう働きがどういう事かと云うと、信心しておかげを受けてくれよと云う事なのです。信心しておかげを受けてくれよと神様はそういう切々として受けてくれよと仰るのだからこちらも受けようと云う本気にこちらも信心しておかげを受けよと簡単なことじゃいけん。本気でおかげを受けようと云うところから信心の心持ちも分からせて貰う。信心させて貰う者はこういう事ではいけないぞと云う御神戒も一通りに自分のものにマスターして仕舞う。それを自分のものにしようと段々精進していく内にこの様にみやすいことですらが出来ない私を感じるときに人間の業を感じる。そこでその業のお取り払いにメグリのお取り払いに信心精進が為されていくところから、そういうものが取り除かれていくところから、例えば現在合楽でおかげが表れているような、私の上におかげが表れているような打てば響くようなおかげが頂かれることになって来る。
おかげを受けてくれよ、おかげを受けたい、それが私の場合でもどんなに打って打っても音の出なかったじだいもあるけれども、ここんとこを取り除かれていく内に打てば響くようなおかげが頂けてくるようになる。そこに受けてくれよ受けたいと云うものの心が相通う、相通ずるのである。そこんところを神様は喜んで下さるのじゃなかろうか。又そこに私共もそこんとこを頂いて信心をしている者の値打と云うものを感じるのじゃなかろうか。信心のある者とない者の違いと云うものをです、私はそう云うところに違いと云うものを持って行かねばならない。とにかく滝川さんの様な人がもし信心が無かったらいよいよ自己嫌悪になる。自分が嫌いになる。人間止めたいようになる。そこに自殺行為と云うものがあると思う。
信心しておかげを受けてくれよと仰る。信心しておかげを受けたいと思う。そこに音のまだ出ない、互い違いになっておるようなところをです、検討して行かねばならないとそこんところを極めていくところが信心の稽古だと思うのです。 どうぞ。